( ´H`)y-~~奇跡はまた起きるか?【備忘:時事:柳根一】
( ´H`)y-~~どうもネタ元が朝鮮日報に偏るなぁ…何故か韓国でも進歩系などはネガティブで面白くなくて敬遠しちゃうし、主要3紙でも、記事の質が高いから、つい、こっちがメインになっちゃうのよね。
と、いうわけで朝鮮日報のコラムから。
【【コラム】奇跡はここで終わらない(上)】(朝鮮日報12月23日)
>年末の政局はハンマーと電気ノコギリで非常に混乱している。同時不況の暗雲が、全世界を覆いつつある。来年は失業者数がさらに増えるとの予測も出た。韓国、そして韓国人は再び試練と逆境の時期を迎えているようだ。だが、ここで挫折するわけにはいかない。挫折する理由もない。韓国と韓国人は元来、嵐をくぐり抜け、奇跡を成し遂げてきた国であり、国民だからだ。
>国民所得80ドル、非識字率70%、農業依存度80%という最貧国だった韓国が、現在のような世界的な産業国に躍進したのも、奇跡という言葉でしか説明できない。「周辺地域は(先進諸国により従属させられ、)周辺地域のままでいるしかない」という従属論を唱える学者たちを学問的に破たんさせた「例外」の国、「例外」の国民こそ、韓国であり、韓国人だった。
【【コラム】奇跡はここで終わらない(下)】(朝鮮日報12月23日)
>では、韓国の奇跡の原動力は何だろうか。一言で言えば、それは「あきらめない、投げ出さない精神」だろう。「キャンドゥ(can do)精神」とでも言おうか。この精神は、ともすれば逆に作用することもあった。韓国社会の政治的・社会的葛藤(かっとう)がことのほか激しかったのも、この「押し」がとても強かったためだ。しかし、教育・慣行・社会のムードを「盲目的な前進」から「省察的な前進」に変えることさえできれば、韓国の「キャンドゥ精神」はさらに大きな成果を挙げられるだろう。
>建国・産業化・民主化世代のこうしたあらゆる情熱は、今日の「自由民主」大韓民国に染み込んでいる。さあ、これからは次世代の番だ。あきらめず、投げ出さず、それでも自身の不足を省みることのできる賢明な次世代であることを期待する。
>「柳根一(リュ・グンイル)コラム」25年-。読者の皆さんとともに歩んだこの歳月は、本当に幸せでした。そして、一番幸せなときに筆をおこうと思います。読者の皆さん、お元気で。
( ´H`)y-~~このコラムを書かれた柳根一氏について韓国語で検索するとこういう記事が。
原文
http://www.hani.co.kr/arti/politics/politics_general/62409.html
翻訳
http://j2k.naver.com/j2k.php/japan/www.hani.co.kr/arti/politics/politics_general/62409.html(ハンギョレ2005年9月6日)
リュグンイルシ, いっそ 党を 作ります!
(記事本文省略)
■ <リュグンイルは だれか>
朝鮮日報社 史料研究室で 至恩 <朝鮮日報 人々>銀 リュグンイルシを キム・デジュンさんと 連れて 朝鮮日報の 代表的な 論客で 紹介して ある. <朝鮮日報 人々> ‘キム・デジュンの デスク-リュグンである’ 便に 積まれた 柳さんの 青年社は このようだ.
“リュグンイルは 大学 時代から 新聞 社会面に 自主 登場する 人物だった. 1957年 ソウル大 政治学科 2年生 時 彼は 文理台 新聞に 寄稿した 文で “全体 無産大衆は 団結しなさい”と 使ってから 国家保安法 違反で 拘束された. 4・19 後には 民族統一連盟 役員で 南北 学生会談を 推進したし, 5・16 後人 1961年 9月 革命裁判所で 懲役 15年を 宣告受けた. 7年 3ヶ月を 監獄で 送って 出た 彼は 1974年 ミンチォングハックリョン 事件に 再び 掛かり合って 8ヶ月 間 服役した.”
青年 リュグンイルと 老年 リュグンイルが ような 人なのか 怪しげな 位だ. ところが 彼の 写真と 一緒に 積まれた 写真説明が さて 珍しかった. “青年時代 進歩的 学生運動を 導く 監獄暮らしを たいてい リュグンイルは キム・デジュンと 一緒に 朝鮮日報の 代表的な 論客が いい”と 使われて ある. 今の 柳さんの 視覚で 見ようとすると, “‘南北 金日成 連合勢力’の 核心で 活動する 過去の 過ちを 悔やんで 転向した 朝鮮日報の 代表 論客”と 紹介すると 夏至 ないか. さて 変だ. 誰が すれば 共産主義者 活動で, 誰が すれば 進歩的 学生運動か.
柳さんの 父親と 中央日報 会長 ホンジンギが 近く 過ごした 死だったし, 彼 縁に 柳さんは 1968年 出獄 後 中央日報に 入って行って 論説委員を 過ごした. 1981年 朝鮮日報 論説委員で 入社した 後 1988年から ‘報道人 キム・デジュン’と 一緒に 記名 コラムを 使った. 2002年 キム・デジュン 主筆の 後を 引き継いで 主筆を 引き受けたし 2003年 2月 停年退任した 後にも 引き続き コラムを 使って ある.
( ´H`)y-~~独裁政権時代は民主化運動に関わり投獄。しかし、親北左派が台頭すると保守論客として一貫して批判してきた「愛国者」であるらしい。
上のコラムを見ると、いかにも韓国らしい希望的というか楽天的というかそういう意見もあるし、韓国の力だけじゃなくて援助もあったろうとは思うわけだが、確かに上のようなことを言えるだけの経歴はあるなぁ、とボクは思ったりする。
日本でも景気は悪いけど、そんな時に例えば戦後の復興などを例に挙げて激励するような記事やコメントがいったいどれほどあっただろうか、と思うと、少なくともメディアのあり方に関しては日本も負けている部分があるんじゃないかと思える。
さて、この柳根一氏、「一番幸せなときに筆をおこうと思います。読者の皆さん、お元気で。」とあるように、朝鮮日報で25年続いたコラムを終えるそうな。
韓国版のコメント欄でも、別れを惜しむ読者のコメントが多いし、単に朝鮮日報を離れただけなら、また記事を書いて欲しいという意見も多い。どのような理由かは知らないけど、こういう人には元気でいて欲しいなぁとボクも思う。
( ´H`)y-~~以前、李圭泰氏についての記事を書いたことを思い出したよ。