( ´H`)y-~~ボクのパパの話(3)
( ´H`)y-~~さて、旧制中学在学中のパパはいろいろ兵隊に行かずに済む方法を考えていたらしい。で、探したあげく、給料が貰えて専門学校クラスの教育が受けられる、という所を見つけた。南満州鉄道会社で人手が不足したせいか、そういうコースがあったのだそうな。これは基本的に旧制中学卒業生を対象にしていたんだけど、パパは募集要項を必死で読み、3年で中退しても入学資格がある、ということに気がつき、この抜け穴を利用して受験。まんまと合格し、満州に行ったのだそうな。この抜け穴に気がついた人がもう一人、奄美大島にいたらしく、この人とはボク幼少時に会ったことがある。そんなわけでパパは満州に行った。
手元に残っている集合写真には「○○駅第一期鉄道練習生卒業記念 昭和19年1月15日」とある。
パパ曰く、「10代なら中国語は半年で覚えられる」らしいのだけれど…覚えた環境が朝の6時から晩の6時まで授業。でも10時くらいまで自習しないとついていけない。朝5時起床で教練があって、学校は満州の原野の真ん中。周りは生徒以外全部中国人…選択の余地無し、という環境での話。
そんなわけでパパは普通の思い出話のつもりだけど、かなり濃い内容の話がいろいろ。
よそに投稿したシャレならん怪談話とか、とにかく寒くて貨物のビールが全部割れてビールビンの形の氷になっていた話とか、李香蘭の撮影にものすごい群衆が押し寄せた話とか。
さて、パパは終戦は満州じゃなくて北京でむかえたのだそうな。前述の奄美の人と2人は北京に研修にだされたのだそうな。…ボクの推測だけど、その駅はいつソ連が攻めてきてもおかしくない(実際、参戦後、2時間でソ連軍が来たらしい)場所にあったので、2人だけ年が若く最年少だったので避難させてもらったのじゃないかと思う。
玉音放送も北京で聞いたらしいが、パパの話では音声が悪くて「もっと頑張って戦争を続けましょう」というように聞いた人も多かったらしい。