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( ´H`)y-~~ボクのパパの話(9)

( ´H`)y-~~今回も「ボクのパパの話」と言いながらも「ボクのママの話(3)」
ボク的につらいので、出来るだけかいつまんで一気に終わらせようと思う。

まあ、その後、ボクが大阪の学校に進んだり、その後、ボク的に今でもあまり整理できてない人生の谷底を経験したりといろいろあったわけだが、その間はパパが呼吸器系の疾患(肺梗塞)で倒れて大変だったり、その後、障害者手帳貰って在宅酸素を続けたりとそれなりに大変ではあったけど、チューブさえつながっていれば買い物も家事も普通に出来たし、ママも一病息災って感じで安定した生活だったわけだ。やがてボクも島の外の会社に就職してそれなりにやってたんだけど、数年後、ママの方に問題が。今度は乳ガンが見つかり手術することに。術後、何故かパパじゃなくてボクが主治医に呼ばれてこう告げられた。どうもパパは話が通じる状態じゃないと思われていたらしい。

「手術では取りきれず、放射線・抗ガン剤での治療を継続します。予後は非常に悪いものと思われます。一般的な余命は2年です」

それから数年間、出来るだけ頻繁に実家に帰ってごはんを作ったりするという日々が続いたが、やはり悪化。切除した乳房はケロイド状のままいっこうにふさがらず、毎日パパが消毒して包帯を巻くという状態。ふさがるどころかどんどん広がり、最終的には胸の皮膚が全部なくなり下の部分が赤く露出し、片腕は象のようにむくんでガンは肺にまで広がり酸素ボンベでやっと呼吸が出来るという状態に。それでもママが望んだので可能な限り自宅で生活し、これまた在宅酸素療法中のパパが世話をしていた。この世話はパパは子供にも絶対やらせようとしなかったし、ママも望まなかった。

でも、やがて入院せざるを得なくなり、入院の時、パパはママのために新しい靴と服を買った。退院の時はこれを着て、と。

何か少しおかしい、と感じた。やがて、医者からもって数ヶ月と告げられママの知り合いあちこちとボクが連絡したけど、どうも様子がおかしい。…パパはこの状態でもまだママが治って家に戻ってくると信じていた…念のために言っておくけどパパは最後まで正気だった…ただ単に絶対に「ママが死ぬ」という現実を受け入れようとしなかっただけで。いや、もっと言えば、その現実をママの最期まで拒絶し続けた。あるいはその後でも拒絶していたのかも知れない。

結局、ママは医者が告げた期日よりだいぶ長く生きたけど最期の日が来る。様態が悪化したという電話を受けてボクは急いで島に帰ったけど間に合わなかった。

病室でパパはしばらくうなだれていたんだけど、まだママが袖を通していない洋服を取り出して「お前、これを着て一緒に家に帰るて言うたやないかー」と言って号泣し始めた。その後、式が終わるまで時々パパは人目をはばからず号泣。ちなみにそんなにお堅いパパじゃなかったけど、パパがボクの前で、あるいは人前で涙を見せたのはこの時が最初。そして、最後になった。

この時、ボクは涙も出なかった。別に親子の情愛が薄かった訳じゃなくてむしろその逆。特にママにはボクは溺愛されて育ったし、ボクもいつまでも若くて綺麗なママが好きだった…というか賢明な読者諸君なら既にお気づきの通り、極度のマザコン。後に昔の朝鮮では孝行の証に親の最後の時が近づいたら自分の太ももとかから肉を切り取って親に食べさせるとかそう言うようなこともあったと聞いたけど「そのぐらい余裕で出来るな」と思ったものである…この時出なかった涙を今流していたりする。

でも、親子でも入っていけない世界がそこにあったように思う。

戸籍には「平成12年6月○日午後1時30分香川県小豆郡○○で死亡同日親族木村○○届出除籍」と記されている。

昭和40年に結婚。その後、ボクが生まれてから最後までパパとママはお互いのことをパパ、ママと呼び合っていた。中学生の頃はイヤだったけど大人になって諦めた。ママは病室で「3日ともたんといわれたけど、長い3日やったなぁ」と言った。

単なる恋愛じゃなくて長い時間をかけて培ったこれを愛というなら、ボクはこれからの人生で誰か一人をここまで深く愛せるのだろうかと思う。

ずっと貧乏だったし、出来の良い子供にも恵まれなかったし、病気でずっと苦労しっぱなしだったけど、それでもたぶんママは幸せだったんだろうと思う。

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