« August 2012 | Main | October 2012 »

( ´H`)y-~~ボクのパパの話(11)

( ´H`)y-~~パパが入院してから何年も何年も同じようなことの繰り返しだったような気がする。
毎年、具合が悪くなると医者に病状を説明され、暗に最悪の事態を覚悟するように言われ、でもパパはがんばり続けて、少し回復…そんなことの繰り返し。

その間、ずっとギリギリの生活を続けた。パパの命も綱渡りだったけど家族も綱渡りだったように思う。でも、そんなことを繰り返しながら段々とパパの様態は悪くなり、人工呼吸器で安定させる時間が長くなって、体力も弱って体の動きが少なくなり目を開けて反応することも少なくなってきた。

入院してすぐに気管切開をしたので会話が出来ずコミュニケーションには苦労したけど、それでも家族だから表情で何を言いたいかはだいたい分かったし、目の色というか、そういうのでずっと意識はしっかりしているというのも分かり、それが辛かった。

景気も雇用もよくない時代…再就職もボクの年齢とかを考えると難しくなってきて、ちゃんとした人生をやり直すのは無理になってきていたけど、「どうせちゃんとした仕事には向いてない性格だし~結婚とかもどう考えても向いてないし~一人で気楽に生きて行ければいいし~」…と、この頃は自分でそう思っていたし、何よりも自分がそうしたいと思ったことをしているだけだと思っていた。

もうほとんど反応を示さなくなったパパを見て…ボクはたとえ目を開けなくても、寝たきりでも、とにかく、ただ生きていさえしてくれればいい、ボクの人生なんかどうとでもなる…そう思って過ごしてきた…が、そんな日々にも終わりがやってくる。

夏の暑さがようやく去って涼しい風が吹くようになった頃の早朝、病院から様態が悪化したので来るように言われた…が、ボクと弟が病室の近くに着いたとき、いつも動いていた人工呼吸器の音がしないこと気がつき、その時ボクらは全てを悟った。

パパに関する記録…戸籍の最後にはこう記されている。

【死亡日】平成22年9月○日
【死亡時分】午前6時50分
【死亡地】香川県小豆郡○○
【届出日】平成22年9月○日
【届出人】木村延夫

| | Comments (279) | TrackBack (0)

( ´H`)y-~~ボクのパパの話(10)

( ´H`)y-~~さて、ママが亡くなってから数年。ボクは島外で仕事しながらしょっちゅう実家に帰ってごはん作ったりしてたんだけど、実家ではパパと弟の2人暮らしで限界が見え始める。
平成14年の初め頃、パパは肺炎になって入院。その時点で肺の半分以上が機能していない状態だったので、弟だけではどうしようもなくなってきたので、ボクは島に戻ることにした。

戻ってもいい働き口はなかったし、それに看病とか家事の都合があったのでしばらく再就職は諦めてパパの回復を待つ…つもりだったんだけど、医者から遠回しに長く持たないと言われる。

パパが肺梗塞になったのはボクが大阪に住んでいた頃、今から20年ぐらい前。だから入院した時点で在宅酸素を続けてかなりの年数がたっていて、医学的、統計的には、この病気で生きられる限界が近づいているという話だった。酸素を供給するのはいくらでもできるけど問題は二酸化炭素の排出で、二酸化炭素の濃度が高くなると、いろんな問題が出る、という事だったと思う。

記憶で書いているのでこのあたりの話は曖昧だけど、確かに初めの頃、まだ体力があったパパは二酸化炭素濃度が高まって錯乱状態になりチューブや点滴を引き抜いたりするので看病も大変だった。

でも、その後、人工呼吸器を使って二酸化炭素を排出したり、体調がよくなると自発呼吸も回復したり、起きあがって自分でごはんを食べたりできるようになったりしたけど、退院には至らなかった。

長く持たないように言われたのに、パパの肺はがんばり続けた…問題はボクの方。

パパの調子にも波があって、寒くなってきたりすると、体調が悪化して食事介助が必要になったり、病院から呼び出されたり、主に医療型の病棟にいたので、おむつを購入して病室に持っていったり、家事や買い物、看病、見舞いの都合で昼間は開けて、時間の融通が利くバイトをするしかなくなったわけだけど、弟の収入やら色々合わせても家計は常に苦しくて、特に個室に移らざるを得ないほど悪化したときはなんとか借金せずに済むという程度。

ボクも弟も精神的にもかなりギリギリの状態だったと思う。

この頃、ボクたち一家を支え、励ましてくれた人も沢山居るけど、みなさんには感謝したい。

特に、今はもう連絡が取れなくなってしまった人たちにはこの場を借りて感謝の気持ちを示したい。

あの頃、生きる希望を与えてくれて、本当にありがとう。

| | Comments (377) | TrackBack (0)

( ´H`)y-~~ボクのパパの話(9)

( ´H`)y-~~今回も「ボクのパパの話」と言いながらも「ボクのママの話(3)」
ボク的につらいので、出来るだけかいつまんで一気に終わらせようと思う。

まあ、その後、ボクが大阪の学校に進んだり、その後、ボク的に今でもあまり整理できてない人生の谷底を経験したりといろいろあったわけだが、その間はパパが呼吸器系の疾患(肺梗塞)で倒れて大変だったり、その後、障害者手帳貰って在宅酸素を続けたりとそれなりに大変ではあったけど、チューブさえつながっていれば買い物も家事も普通に出来たし、ママも一病息災って感じで安定した生活だったわけだ。やがてボクも島の外の会社に就職してそれなりにやってたんだけど、数年後、ママの方に問題が。今度は乳ガンが見つかり手術することに。術後、何故かパパじゃなくてボクが主治医に呼ばれてこう告げられた。どうもパパは話が通じる状態じゃないと思われていたらしい。

「手術では取りきれず、放射線・抗ガン剤での治療を継続します。予後は非常に悪いものと思われます。一般的な余命は2年です」

それから数年間、出来るだけ頻繁に実家に帰ってごはんを作ったりするという日々が続いたが、やはり悪化。切除した乳房はケロイド状のままいっこうにふさがらず、毎日パパが消毒して包帯を巻くという状態。ふさがるどころかどんどん広がり、最終的には胸の皮膚が全部なくなり下の部分が赤く露出し、片腕は象のようにむくんでガンは肺にまで広がり酸素ボンベでやっと呼吸が出来るという状態に。それでもママが望んだので可能な限り自宅で生活し、これまた在宅酸素療法中のパパが世話をしていた。この世話はパパは子供にも絶対やらせようとしなかったし、ママも望まなかった。

でも、やがて入院せざるを得なくなり、入院の時、パパはママのために新しい靴と服を買った。退院の時はこれを着て、と。

何か少しおかしい、と感じた。やがて、医者からもって数ヶ月と告げられママの知り合いあちこちとボクが連絡したけど、どうも様子がおかしい。…パパはこの状態でもまだママが治って家に戻ってくると信じていた…念のために言っておくけどパパは最後まで正気だった…ただ単に絶対に「ママが死ぬ」という現実を受け入れようとしなかっただけで。いや、もっと言えば、その現実をママの最期まで拒絶し続けた。あるいはその後でも拒絶していたのかも知れない。

結局、ママは医者が告げた期日よりだいぶ長く生きたけど最期の日が来る。様態が悪化したという電話を受けてボクは急いで島に帰ったけど間に合わなかった。

病室でパパはしばらくうなだれていたんだけど、まだママが袖を通していない洋服を取り出して「お前、これを着て一緒に家に帰るて言うたやないかー」と言って号泣し始めた。その後、式が終わるまで時々パパは人目をはばからず号泣。ちなみにそんなにお堅いパパじゃなかったけど、パパがボクの前で、あるいは人前で涙を見せたのはこの時が最初。そして、最後になった。

この時、ボクは涙も出なかった。別に親子の情愛が薄かった訳じゃなくてむしろその逆。特にママにはボクは溺愛されて育ったし、ボクもいつまでも若くて綺麗なママが好きだった…というか賢明な読者諸君なら既にお気づきの通り、極度のマザコン。後に昔の朝鮮では孝行の証に親の最後の時が近づいたら自分の太ももとかから肉を切り取って親に食べさせるとかそう言うようなこともあったと聞いたけど「そのぐらい余裕で出来るな」と思ったものである…この時出なかった涙を今流していたりする。

でも、親子でも入っていけない世界がそこにあったように思う。

戸籍には「平成12年6月○日午後1時30分香川県小豆郡○○で死亡同日親族木村○○届出除籍」と記されている。

昭和40年に結婚。その後、ボクが生まれてから最後までパパとママはお互いのことをパパ、ママと呼び合っていた。中学生の頃はイヤだったけど大人になって諦めた。ママは病室で「3日ともたんといわれたけど、長い3日やったなぁ」と言った。

単なる恋愛じゃなくて長い時間をかけて培ったこれを愛というなら、ボクはこれからの人生で誰か一人をここまで深く愛せるのだろうかと思う。

ずっと貧乏だったし、出来の良い子供にも恵まれなかったし、病気でずっと苦労しっぱなしだったけど、それでもたぶんママは幸せだったんだろうと思う。

| | Comments (118) | TrackBack (0)

( ´H`)y-~~ボクのパパの話(8)

( ´H`)y-~~今回もまた「ボクのパパの話」と言いながらも「ボクのママの話(2)」を。

ママに関しては今回見てみた記録の中には数カ所しかイベントがないし、調べれば家の中には記録が残っているはずだけど、あくまで基本的にはパパの話だし、それに、今、調べるのはやっぱりボク的につらいので出来るだけ簡単に。というか、ここから先は基本的につらい話になってくるし、更新も滞りがちになると思うの。

と、いうわけで今回はパパに関わるママの記録から出生・入籍につづく出来事につながってくる話を。

まあ、結婚後は特に変わったところもない、ごく普通の夫婦として、また、家族として生活してきたわけだ。
ただ、1976年の台風17号のときに水害で家が流されたりとかした関係でとても貧乏だった。このときパパの蔵書も大部分水につかってダメになったが、学習百科大事典とか一部の蔵書は無理矢理レスキューした。その中の一冊に「断絶の時代」(ピーター・F・ドラッカー)があった。

でもボクが中学校の頃までは概ね平和だったけど、その頃からパパが胆石の手術をしたり、と健康上の不安が出てくる。やっぱ年を取るといろんな事があるよね。

高校2年の頃、ママが入院。病名は確かその当時子宮癌と言われたと思う。手術で子宮全摘。後の治療も含めて1年ほど入院生活が続く。ママも大変だったけどパパも大変だったと思う。その頃、家でごはんを作る人が居なくて仕出しの弁当を頼んだり、ボクは昼食代に500円もらってしのいだりしていた…が、ボクはその500円を文庫本を買ったりするのに使ったので、当時、今と同じ身長で今より数十キロ痩せていた。

やがてママが退院。神経を取ったので排便が自然に出来ずずっと下剤のお世話になることになったけど、パートにでたり普通に家事をやったりする程度に無事回復。以後、ボクが成人してなんとか仕事し始めるまで毎年岡山に小旅行がてらパパと仲良く検診に行きながらも普通の生活をしていた。

ママと同じような病気の人のブログとか見てみたけど、医学が進んだ現在でもやはりたいへんで、そのとき、「変な同情心はためにならない」みたいな文もみかけたけど、「同情」は辞書的な意味では【他人の感情、特に苦悩・不幸などをその身になって共に感じること(広辞苑)】とあり、慣用的に単に相手を可哀想に思うような使われ方とは違う意味になる…ボクのパパは決して完璧なパパじゃなかったけど、つらい時、苦しいときにともに笑ったり悲しんだりしてくれる人ではあった…たぶん、ママにはとても助けになったんじゃないかと思う。

| | Comments (5) | TrackBack (0)

( ´H`)y-~~ボクのパパの話(7)

( ´H`)y-~~今回は「ボクのパパの話」と言いながらも「ボクのママの話(1)」を。

戸籍を見るとママは昭和13年に生まれている。14年というのはボクの勘違いだったのか…あるいは…実はママはボクが中学校に上がるまで実の子であるボクに5歳年齢をサバ読んで教えてた…「周りのお母さんより年上だから気兼ねしないように…」とか言ってたけど、やっぱりママも相当変わり者ではあった。ただ、それが通用する…あるいはそれ以上に若く見えるママではあった。ボクの記憶でも集合写真とか見ても年齢より若く見えたし、それは最期までそうだった。

戦中戦後の記憶はまだ子供だったのでパパほどはっきりとは覚えていないが、幼心に高松が空襲で燃え上がっている様子が小豆島からでも見えたのがとても怖かったと言っていた。パパも満州から内地に帰ったとき、まさか内地がここまで荒れ果てているとは思っていなかったそうな。

まあ、戦争を経験した世代にとって戦争は無条件にイヤなもんだ。

ママの血縁関係は実は複雑なんだけど、事実上、ママは老夫婦の一人娘として育つ。
しかし、若い頃の事故で体に障害が残っていたという母方の祖父は昭和30年代に亡くなり、結婚前は祖母と2人で貧しい暮らしであったらしい。この祖母はボクの記憶にもある。

ボクが幼児のころ、大阪で一緒に亡くなるまで生活していた。ずっと後で聞いたけど、大阪に引き取ったとき、既に肝臓癌に冒されていて、余生を家族でと言うことだったらしいが、幼児のボクはそんなことは知らずにお婆ちゃんにすごくなついて可愛がって貰っていた。

亡くなる前に「良い孫が出来た」と喜んでいたそうで、何も知らなかったけどたぶん幼少時のボクは生まれてきただけで周りに喜んでもらえてたのだろうと思う。結局、ボクが小学校に上がる前に亡くなった。なので、ドラえもんでのび太のおばあちゃんにタイムマシンで会う話とかは思い出すだけで涙が出てくる。

さて、これで終わればいい話なのだが、この母方のばあちゃんの少し歴史に関わるエピソードを。

うちの近所に神社があるんだけど、ばあちゃんは「あそこは御利益がない」と言ったそうな。理由は「聖戦の時、毎日、皇軍が勝ちますようにとみんなでおがんだけど負けた」

また、豆腐屋もやってたんだけど、戦後は豆腐作りに使った鍋釜の類は全くなくなっていて、木製の氷冷蔵庫だけが残されていた。理由は、金属の供出に喜んで応じたから。

あと、戦後ものすごく貧乏だったんだけど、それはなけなしの貯金を満州国債権とかに「お国のため」として投じたから…

…その、何だ…ボクが子供の頃は今より世の中が左寄りで教育も戦争中のことに関しては軍が戦争に向かわせたみたいなことを言ってたけど、このエピソードを聞いたとき「もしかして学校で習っていることやテレビや新聞で言うことはウソが混じってるんじゃないか…国民、ノリノリやったやん」と思ったものである。

没後、几帳面なばあちゃんが綺麗に整理していた遺品の中から日本の地図が出てきた…ただし、大日本帝国最大版図が赤く記されている地図。

小豆島ってわりと全国的に有名な反戦小説の舞台でもあるんだけど、当時の住民は、ばあちゃんの話もそうだけど、いろいろ聞くとすげえ好戦的。

| | Comments (309) | TrackBack (0)

« August 2012 | Main | October 2012 »